先々週のこと 次の約束まで少し時間があったので 浅草の国際通りに面したカフェの2階にあるバーに寄った。ステイプルチェイス盤のチェット・ベイカーが低い音量で流れている。他に客の居ないカウンターの真ん中でジントニックをゆっくり飲むうちに いま出て地下鉄に乗ればちょうど良いという時間になった。勘定を済ませて階段を降りる。バーを目指している時には気づかなかったのだが 隣は小さなレコード屋だった。軒下にスピーカーがあって わりと大きなボリュームで歌が聞こえてくる。「カナリア諸島にて」だ。たまたま有線か何かでかかっているのか それともこの店が意志を持ってかけているのかが 何故だか急に気になり出して ガードレールに寄りかかり次の曲を待つ。「Pap-Pi-Doo-Bi-Doo-Ba 物語」だった。だんだん離れ難くなってくる。そのまま「恋するカレン」までを舗道で聴き 待ち合わせの相手に遅れる旨をメールして地下鉄の駅に向かった。歩きながら 「大瀧詠一はもうこの世から居なくなってしまったのだ」という事実を そろそろ受け入れなくてはならないと思い始めた。
大瀧詠一が亡くなった日 たくさんの弔辞がツイッターに流れてきたけれど その言葉自体に嘘はないとわかってはいても 短時間のうちにあまりにも簡単に哀悼の意を競うように吐露することには 少なからず違和感を覚えていた。だからぼくにとってはどんな感動的な言葉よりも 入口のガラス戸に演歌歌手のサイン入りポスターを貼っているようなレコード屋が『ロング・バケイション』をかけていた夜にその前を通るという偶然のほうが 心のいちばん深いところに届く不在の悲しみだったのだ。
大瀧詠一はもうこの世から居なくなってしまった。