今年 いちばん違和感を感じたこと。
敬愛する誰かが亡くなったときの悲しみは大きく
心から弔意を表明したいと思うのは当然のことだ。
でも いつからか… 否… 明らかに
twitter や Facebook が日常的になって以降
そんな意図がないことはきちんと理解できているのに
誰かが亡くなった日のそれは
誰よりも早く
哀しみに打ちひしがれる気持ちを言葉にし
いちばんの理解者が自分であることを語り
胸に響く生前の想い出を披露するという
ある種の競争をしているように見えて仕方がないのだ。
(もちろん自分も この傾向と無縁とは言い難い)
身体の隅々に沁みわたる哀しみが落ち着くまで
黙して語らず
偉大なる者の不在を胸の奥底で実感したときに
ゆっくりと湧きあがってくる何かを静かに待つのは
この時代には もう そぐわない態度なのだろうか。