ぼくにとって永井宏さんは 美術作家である以前に 憧れの編集者だった。80年代の終わり 田園調布駅前にあったカフェ『ドゥエ ソレッレ』ではじめてお会いしたのだが(紹介してくれたのは 生井英考さんか佐山一郎さんのどちらか) それ以前から『ブルータス』で名前を見知っていて ステレオブラザーズ名義のコラムも愛読していた。だから最初に「こちらは勝手に 前から存じ上げています」と自己紹介をしたのだ。
ときどきそのカフェで偶然に会って話すうちに ぼくが10年くらい大切に取ってあった『ZERO』という日本航空のパンフレットが 実は永井さんの仕事だと聞かされて驚いた。パンフレットの中味は いま まったく忘れてしまっているけれど アメリカ大陸の途方もない大きさと自由をぼくの心に刻み付け 保存しておこうと決めるのに充分すぎる魅力を持った内容のはずで その話に触れてから 編集者としての永井さんの存在は ぼくの中でますます大きくなった。
田園調布のカフェを根城にして 永井さんとぼくは『VISAGE』という雑誌をつくった。ジャック・タチの特集。永井さんの役割はアートディレクターだ。やがて 永井さんは逗子に引越してゆき 駅前のカフェも店をたたんでしまう。ある日 ご招待いただいて(むりやり押し掛けただけだったかもしれない)逗子のお宅におじゃましたことがきっかけで 永井さんの暮らしぶりにすっかりかぶれたぼくは 鎌倉で生活を始めることになった。友人や知人の家に行ったり来たりして手料理を食べるというような付き合いが苦手だったはずなのに この時期は よく永井さんの家で酒を飲んで「ミスター・タンブリンマン」を歌ったり 永井さんの紹介で知り合った人たちを家に招いて楽しく過ごした。そして 誰彼かまわず 鎌倉へ引越してきなよと誘った。
鎌倉に住んでいた頃 永井さんとぼくは『ガリバー』という雑誌のパリ特集を一緒につくり さらに『ブルータス』の湘南プロヴァンス特集(すごいタイトルだ)に参加した。永井さんが変名で原稿を書いて ぼくは ぼく自身と架空の人物がない混ぜになったキャラクターとしてそこに登場する。とても面白い協同作業だった。
永井さんが主宰した葉山のギャラリーが存在したことで どれだけの才能が発見され 勇気づけられ 巣立っていったかについては たぶんぼくよりも若い世代の まさにそこに集まった人たちのほうが良く知っているだろうし それについて語ってくれるに違いない。
「人と人を繋げる媒介役になること」や「もともとその人に備わっていた 何か良いものに気づかせること」は いまぼくが編集者としていつも心がけていることだが それを実際にお手本として ずっと変わらずやってみせてくれていたのが 永井さんなのだと思う。
永井さんが亡くなられたことを知った朝 バークレーから北上してネヴァダシティーへ向かった。そこはビート詩人のゲイリー・スナイダーが住む町でもある。フリーウェイを走り アメリカ大陸の途方もない大きさと自由を感じながら ぼくは永井さんを想った。カリフォルニアを彷徨っていて永井さんの葬儀に参列できないという偶然は とても切ない。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。