December 30, 2011

R.I.P.



今年 いちばん違和感を感じたこと。


敬愛する誰かが亡くなったときの悲しみは大きく

心から弔意を表明したいと思うのは当然のことだ。


でも いつからか… 否… 明らかに

twitter や Facebook が日常的になって以降


そんな意図がないことはきちんと理解できているのに


誰かが亡くなった日のそれは


誰よりも早く


哀しみに打ちひしがれる気持ちを言葉にし

いちばんの理解者が自分であることを語り

胸に響く生前の想い出を披露するという


ある種の競争をしているように見えて仕方がないのだ。

(もちろん自分も この傾向と無縁とは言い難い)


身体の隅々に沁みわたる哀しみが落ち着くまで

黙して語らず

偉大なる者の不在を胸の奥底で実感したときに

ゆっくりと湧きあがってくる何かを静かに待つのは


この時代には もう そぐわない態度なのだろうか。


November 16, 2011

BREAD A ESPRESSO



泊まっているホテルのすぐ裏に小さなパン屋があって 一昨日の昼にはじめて寄ったときに 開店が朝7時半だということを知り嬉しくなった。さっき 朝ゴハンを食べに行ってきた。


開店にちょっと早かったか 開店がちょっと遅れているのか 中は電気が点いているのにシャッターが閉まっていて 中年の女性がひとり建物と少し距離をとって開くのを待っている。間もなく店のドアが開け放たれた。焼きたてのパンの匂い。大きなマルゾッコのエスプレッソマシンがある。立ったままならイートインも可能なのだ。先客の買い物が終わるのを待って 無花果のパンとロングブラックを頼む。ひきりなしという程ではないが 通勤途中にパンを買っていく客がかなりいるようだ。


こういう店があれば いま泊まっているあの味気ないホテルも とても素敵なところに感じられる。冷たく引き締まった空気が窓から入ってきて ぼくはバークレーの『金熊荘』と『カフェファニー』のことを想った。



November 4, 2011

October 8, 2011

THE LIFE IN THE WOOD



LA でも東京でもない場所で
久しぶりにマイクと話した。

はじめて会ったのは2000年で
それからしばらくは1年に1回くらいは会っていた。
映画『サムサッカー』の日本公開にあわせ
監督として来日したのは たしか 2006年だったと思う。
それからしばらく機会に恵まれなかったので
実に5年ぶりだった。

この5年の間に
いや 『サムサッカー』の制作をはじめた頃だから
この7年くらいと言ったほうが たぶん良いだろうが
マイクに大きな変化が 次々と訪れていたことは
本人から あるいは人伝に聞いた。

たまたま計画段階から知っていたマウンテンハウス。
そこには 愛犬の ZOE が居た。
そして ミランダ。

激しい嵐の後みたいに
雲の流れがだんだんとゆっくりになり
風がおさまって 陽の暖かさを感じ取れる。
そんな印象だった。
落ち着きのある居心地の良さは
この場所のせいだけではないだろう。

"Wouldn't it be nice if we were older?"

これまでとは違う話ができて楽しかった。


October 5, 2011

October 4, 2011

SCULPTOR



彫刻家 リッキー・スワローのアトリエに行った。

実は彼の彫刻を直に観るのははじめてだった。

彼の話や 写真などから想像していたものの何倍も

深淵で強くて素晴らしかった。


そして 反省した。


おそらく日本では リッキー・スワローは

彫刻家(ときには水彩画も描く)としてよりも

センスの良いブロガーとしてだったり

「ALTADENA WORKS」という

バッグブランドの共同プロデューサーとして

名前を知られる人物となっていて

その責任の一端は 自分にも大いにある。


いつかリッキーの作品そのものや

彼が制作のプロセスで考えていることなどを

紹介する機会をつくらなくては

本当に申し訳ないと 心から思った。



October 2, 2011

A LA PLANCHA



前に勤めていた出版社で、長尾智子さんの著書の編集を担当させてもらったことがある。長尾さんが、愛してやまないバスク地方の文化や食べ物について書いた本なのだが、取材に同行できるという話があったにもかかわらず、他の仕事と重なったためにそのチャンスを棒に振ってしまった。前職に心残りがあるとしたらひとつだけ、バスクへ行けなかったことだ。


一昨年だったか、何かの雑誌に長尾さんが九州について書いていて、熊本にあるバスク料理のレストランを紹介していた。いつかバスクへという願いはその後もなかなか叶わないけれど、熊本のバスク料理ならいつでも行けるはず。ところが高を括ったのが良くなかったか、熊本へ行く機会がなかなか訪れない。博多から鹿児島へ、あるいはその逆を新幹線で移動していて熊本駅に停車する度に、まだ見ぬバスク料理がいつも頭をかすめるのだった。


この間、鹿児島から東京へ戻る前に大阪へ寄らなければならない用事があって、中央駅まで切符を買いに出かけた。三連休の直前だったから、みどりの窓口には長い行列ができていて、ぼんやり順番を待っていると、熊本まで新幹線ならたった1時間弱なのだからすぐにでも行けるじゃないかという誰かの声が聞こえた。誰かとはもちろん自分だ。携帯電話で「熊本、バスク料理」とキーワードを入れて検索してみる。<IRATY>という名前の店がすぐに見つかった。それが長尾さんが書いていたレストランだったかどうかはわからないが、熊本にバスク料理を出す店が何軒もあるとは思えず、すぐに電話をかけた。もし満席だったら行く機会はさらにずっと先になったに違いない。だが幸運にも翌日の昼に空席があったのだ。窓口で新大阪への片道切符と一緒に、熊本までの切符も買った。


店の中は4人用のテーブルがふたつとカウンターのみで、カウンターも端のほうに椅子が2脚あるだけだった。入るときに見かけた看板には「本日は満席です」と書いてあったのだが、客は自分を入れて5人だけ。手伝いの女性はいるものの、料理もワインを選ぶのも予約の電話を受けるのも、どうやらシェフがひとりでやっている様子だ。目が行き届くようにするためにはこのくらいの人数に留めておきたいのかもしれない。ランチコースのみだった。前菜にパテのサラダ、メインに赤鶏のバスク風煮込を選び、グラスワイン3杯とともに食べた。どうしてもワインを我慢できなくなる料理だったのだ。厨房のレンガの壁の前に炭火焼の道具、プランチャが据えられている。そこで焼かれている肉のなんと美味そうなことか。他の客のテーブルへ運ばれるその肉を眺めていて、次は夜に来てアラカルトで注文しようと決意した。そのときは鹿児島中央駅を何時に出発するのが良いだろうか。


October 1, 2011

September 29, 2011

September 28, 2011

September 25, 2011

COFFEE INNOVATE



鹿児島市役所の裏のあたりに工事中のビルがあった。古いビルの1階に新しい店をつくっているらしい。通りに面して大きな窓があり そこから中を覗いてみると どうやらコーヒースタンドができるようである。天井が高く広くてがらんとしたスペースのいちばん奥の壁の前に カウンターらしきものがあった。

カウンターの右端の奥に置かれているのは カバーで覆われているけれど 間違いなくエスプレッソマシンだ。オレゴン州のポートランドや カリフォルニア州のベイエリアあたりにありそうな 所謂「第三の波」と呼ばれているスタイルでやっていこうとしているのだろう。

ガラス窓には貼紙がしてある。そこにはコーヒーカップを擬人化したキャラクターとともに「COFFEE INNOVATE」と書いてあった。

内装を担当していたのは たまたま知り合いだった。ちょうど彼が中に居るのをいいことに 工事中の店内に入らせてもらう。バリスタの修行を6年ほどしたという若い店主と 少し言葉を交わす。来月中旬オープンの予定だそうだ。そして彼から 朝8時に店を開けるつもりですと聞いて嬉しくなった。場所柄 通勤前にコーヒーを買っていく人で混み合うようになったら 素晴らしいと思う。

気持ちの良い空間と 美味いコーヒーを出す準備が整いつつある。『COFFEE INNOVATE』が この辺りに欠かせない 生き生きと機能する場所になるために あとは良い客がせっせと通って リラックスした雰囲気を醸し出せばいい。そこは客にかかっている。美味いコーヒーを飲むための行列に苛立つこともなく 誰とでも挨拶をして 自分の言葉で周囲と会話しながら待つ。良い客はさらに良い客を呼ぶはずだ。コーヒースタンドというのは そういう場所であるべきである。


September 16, 2011

TOPKNOT


お正月には凧あげて という童謡の歌詞
北海道で生まれ育ったので ぜんぜん同感できなかった。

では 子どもの頃 ぼくはいつ 凧をあげていたのだろうか。
桜が満開になる五月だったかもしれないし 秋だったかもしれない。
季節は忘れてしまったけれど それが奴凧で
新聞紙を細長く切って 奴さんの足の先につなげた記憶がある。

コーナーショップのPVの冒頭に出てくる風景を
グジャラート州アーメダバードの旧市街近くで見たことがある。
白い糸を長く壁沿いに張って 男がその前を往復している。
糸がだんだんピンク色に染まっていくのを ぼんやり眺めていたら
ガイドが あれは凧糸を加工しているのだと教えてくれた。

この間 福岡でふらりと寄った工藝店で
壁に飾られていた新羅凧を買った。
四月に訪れたイームズハウスの本棚にあった虻凧は
紙が破けてしまい 骨組だけが残っていた。

こんなに凧に惹かれるのが どうしてなのか まだわからない。

September 11, 2011

EVERYBODY KNOWS THIS IS NOWHERE



ある人物が 毎日のように眺めたかもしれない夕景。

トパンガキャニオンにいまも残っている
ニール・ヤングが かつて住んでいた家に遊びにいった。
いまのオーナーが何代目なのかは知らない。
おそらく3代目か4代目だろう。
そのオーナーが 地下室を改造して 人を住まわせている。
いま そこを借りているのは 若い音楽家カップルで
彼らが招待してくれたのだ。

急斜面に建てられた家だから
坂道を上がっていくと まずガレージが見え
その前を通り過ぎてさらに上に行くと玄関になる。
そこはオーナーの住居で 目指す部屋は
ガレージ脇のドアを開け 階段を上がったところにある。
この部屋が地下室。地下室といっても窓はあった。

部屋はふたつ。手前がリビングルームで
奥はダイニングキッチン。その境の壁にガラス窓がある。
キッチン奥のアルコーブとともに
そこがレコーディングスタジオだった頃の数少ない名残だ。
『AFTER THE GOLD RUSH』の大半の曲は
1970年にこの場所で録音されたのだという。

キッチンの横の小さなドアから外に出て
石段を上がると裏庭だった。
谷に張り出すようにつくられたウッドデッキで
ビールをごちそうになった。
向かいの山に西日が当たり オレンジ色に光っている。

彼らもミュージシャンだから キッチンには楽器もあったし
簡単な録音ができるようにもしてあるらしかった。
でも かつてそこがどんなふうだったか 知る由もないけれど
いま現在の様子とかなり違っていることだけは確かだ。
親切に「遠慮せずに写真を撮ってもいいよ」と
声をかけてくれたが
室内でシャッターを切る気は起きなかった。

結局 ぼくは ウッドデッキから夕暮れの風景を撮った。
それだけが 昔もいまも変わらないものだと思ったから。


August 4, 2011

POP UP STORE



ぼくがビオワインを好むのは 味はもちろんだけれど
造り手の態度や考え方に惹かれる部分も大きい。
ワインの等級を決める基準そのものの古臭さに組することなく
ピラミッドの外で 軽やかに自分自身の味を追求する姿が
ある種の健全なる反骨精神を感じさせるのである。
事大主義なんて糞食らえ。

ビオワインの楽しさを教えてくれる店はたくさんある。
でも「アヒルストア」の存在は ぼくの中では別格だ。
ワインにまつわるイヤな感じを 蘊蓄や威張りを
きれいに消し去ってくれる健全な場所。
知識があってもなくても いずれにしても ここでなら楽しめる。
特別扱いは一切なく 旨いビオワインの下ではすべてが平等。
健全な肉体に健全な精神が宿るが如き店なのだ。

鹿児島に明日から2晩だけ「アヒルストア」が出現する。
誰かが大いに刺激され 鼓舞され 何かを掴みとって
似たような店が鹿児島に生まれるとしたら 最高に素敵だと思う。


July 23, 2011

NOT A LITTLE GIRL ANYMORE


リンダ・ルイスの名前をはじめて知ったのは
中村とうようの文章を読んだときだった。
それがこのアルバムについての話だったかどうかは忘れている。

ぼくは中村とうように会ったことはない。
コンサート会場などで見かけたことも たぶん ない。
だから 尊敬はしていても ここでは敬称をつけない。
それは "夏目漱石さん" と書かないのと同じ理由だ。

中村とうようはぼくの音楽とのつき合い方に
多大な影響を与えた偉人であると書こうと思い
いろいろ考えているうちに気づいたことがある。

あなたが雑誌を編集する上で影響を受けた雑誌は何か?
ときどき受ける その類いの質問に対して
植草甚一責任編集と謳っていた時代の『宝島』や
二色刷りだった頃までの『ハッピーエンド通信』などを
挙げるのが常だった。
でも 本当は 真っ先に『ニューミュージック・マガジン』と
ぼくは答えるべきだったのではないだろうか。

高校への通学路にあった「三木薬局 書店部」という店で
ウッドストックフェスティバルの特集号を手にして以来
どんなに金がないときでも この雑誌だけは欠かさず買い続けた。

音楽を入口にして その背景にまで
読者の興味を導くことのできる広い視野と深い知識。
自説は曲げないけれど 意に沿わない相手を排除しないフェアネス。
憎まれ役をかってでも 周囲を鼓舞し続けるリーダーシップ。
雑誌の編集長を務めるにあたって必要なことのすべてを
ぼくは 知らないうちに 中村とうようから学んでいたのだと思う。
(もちろん 決して ぼくにもそれが出来たという意味ではない)

July 14, 2011

DEMEL



好きなものを30個ほど挙げてほしい。

今朝 その依頼について考えていて
マーガレットの花の絵が蓋に描いてある
円いソリッドチョコレートのことを思い出し
そういえば あれの名前は何だったろうと
パソコンで検索をしはじめた。
そして 原宿クエストの <デメル> が
八月いっぱいで閉店することを知ったのだ。

10年は経っていないはずだが
雑誌のヴァレンタインデー特集をながめているときに
フランスの ジャンだとかアンリだとかピエールだとか
そんな類いの名前のチョコレートばかりが並んでいて
そこにデメルが含まれていないことで不安になり
原宿クエストまで様子を見にいったことがある。

もちろんデメルはそこにあった。
そのときにも マーガレットのチョコレートを買った。
そして「この風格と奥深さがある限り
自分は引き続きデメル派で行こう」と何かに書いた。

今日 閉店のことを知り 昼食の後でクエストに寄った。
もちろん まだデメルはそこにあった。
外の灼熱地獄などまったく想像できないほど
店内は冷んやりとして 静かで薄暗い。
自分の足許がレインボーサンダルであることを恥じた。
風格とはこういうことを言うのだと思う。

ショーケースを覗くと 目当てのチョコレートがない。
詰め合わせならあるが あの円い箱のものは
もうつくっていないと 店員が言った。
ぼくはデメルについて 一日のうちに
ふたつの悲しい事実を知ったのだ。

原宿クエストの店が閉店するだけで
百貨店の中にある店舗などは引き続き営業する。
でも ぼくには デメルの風格や奥深さを
デパ地下で 同じように感じ続ける自信がない。



June 29, 2011

THE ARM



"用の美" の反対語は 何だろうか。

道具が 何世代も使われ続ける中で獲得していった
無駄や狙いのない 目的を果たすためだけのかたち。

ぼくは "焼き物" という言い方が好きではないが
陶器という単語には すでに "器" という
道具の名前が入っているから
あえてそう呼べば 日本人が "焼き物" に求めるのは
結局は 使い道なのかもしれないと ときどき考える。

前に イアン・マクドナルドの自宅を訪ねたとき
デスクの上に 掌くらいのサイズの
陶製のオブジェが置かれているのに気づいて
こういうものが家にあったらいいなと思った。
だから 東京ではじめて開かれるショーのために
イアンが オブジェをたくさんつくってきたことが
とても嬉しかった。

いま 手に入れたオブジェをどこに置くかを
ぼくは にやけながら考えている。
たぶん 仕事机のパソコンの向こう側にするはずだ。
そして こうやって文字を打つことに飽きたとき
視線を画面からはずした先にある
土の塊を焼いた 美しいオブジェを見つめるのだ。

用途のない美しさは 何と呼べばいいのだろう。


June 28, 2011

A HOUSE BECOMES A HOME



最新号の『HUgE』をながめていて
イームズハウスみたいだな と思った。
作原文子さんがスタイリングした巻頭ページのことだ。
もちろん 同じものが置いてあるわけではない。
でも GOOD STUFF だけが並ぶ住空間の
心地よさの質が 同じように感じられ
いま イームズハウスについて あらためて考えるのは
必然性のある偶然のように思えてくる。

ぼくは まだ手にしていないけれど
間もなく『BRUTUS』の最新号が発売される。
タイトルは "A HOUSE BECOMES A HOME" 。
これまで 二十世紀を代表する建築物のひとつとしてしか
見てこなかったイームズハウスを
チャールズとレイの暮らした家として
あらためて見直してみたら 何が見えるだろうか。
それが この特集のテーマだ。

見落としたものも たくさんあるだろうけれど
より多くの人にとって 新しい発見があるのなら
それ以上の幸せはない。


June 15, 2011

THE STILL-ROOM



四月にジューン・テイラーの話を聞きにバークレーへ行った。
いま書店に並んでいる『CASA BRUTUS』7月号のための取材だ。

ジューンへのインタビューでいちばん心に響いたのは
以前はオーガニックな素材という部分にだけとらわれていたが
誠実に果実を育てている小さな農家と深くつき合うようになって
信頼関係を築くことのほうが大切と思うようになったという話。

誤解してもらいたくないのは
オーガニックかどうかにこだわらないのではなく
もちろん オーガニックな素材を最優先にしているけれど
オーガニックであれば 何でも良いというわけではないし
信頼できる相手であれば オーガニック "認定" には
必ずしもこだわらないという意味だということ。

型に固執してばかりでは 本質を見失ないかねない。
そんなことを思い出しながら
トーストにメイヤーレモンのマーマレードをのせて食べる朝。


June 14, 2011

ART FOR ALL 8



ひとりで好きなようにつくる ZINE も面白いけれど
自分という小さな枠を ひとりで超えるのは難しい。
みんなでつくる MAGAZINE は
制約が多そうだけど どんな心構えで臨むかによって
自分の枠よりも大きなものになる可能性が高い。

ZINE より楽しい MAGAZINE をつくろう。

そんな気持ちで始めた SPBSの編集ワークショップが
いよいよ佳境に入った 先週の土曜日
撮影スタジオにみんなの歓声があがった。
デザインのラフが届いたのだ。

受講生たちとつくっている『art for all』は
いつもはぼくとデザイナーだけでやっている。
受講生たちみんなでつくる雑誌版『art for all』の
何と楽しいことか。みんな 実に頼もしい。

『art for all』8号はもうすぐ完成!


May 22, 2011

GOODBYE POLAROID AND AMEN



ポラロイド690を使い始めたのは たぶん1999年だったと思う。その頃 渋谷のビックカメラで "投げ売り" と言っていいような安い値段で売られていたのだ。それまではスペクトラとジョイカムで撮っていた。意外に思われることが多いのだが ぼくはSX-70を使ったことが一度もない。

ひとりでフリーペーパーをつくる必要にかられ 690を買った。デジタルカメラも持ってはいたけれど まだまだフィルムで撮影することが主流で 進行ギリギリで印刷物をつくるには ポラロイドカメラがいちばん便利だった。少なくとも当時のぼくは そう考えていた。そのうちに 正方形フォーマットのフィルムで撮ることがどんどん楽しくなってきて ブログを始めた2004年前後から 相当の量を撮るようになっていた。

昨日 ポラロイド600フィルムの最後の1枚を撮った。このフィルムは 今年の2月に 友人の "THE LAST FRENCH MAN" がくれたものだ。そのときにもらった2箱のうち 使用期限が切れてから長い時間が経っているほうを使ってみたら 案の定 ほとんど色が出なかった。もうひとつのほうは比較的 新しかったので 何かのときにと 冷蔵庫にしまっておいた。

「フィルムがなくなりそうだ」とツイッターでつぶやくたびに 友人や知人がプレゼントしてくれたから 店頭からフィルムが消えてしまった後も撮ることができていた。でも これが最後だ。先月 サンフランシスコへ行ったときに 同行者が "IMPOSSIBLE" のフィルムをくれた。すぐに試して すべて失敗した。シャッターを押してカメラ本体から出てきたフィルムを 感光させないためにシェードをかけるという 正しい使い方を知らなかったためだが そこまでしてこの先もポラロイドで撮影したいのだろうかと自問自答した。そして 冷蔵庫の中のひと箱を潮時にしようと決めた。

1枚だけ失敗してしまったので 全部で9枚。この数日の間に鹿児島で撮った。カメラは680だ。手持ちの690はすべて毀れたまま放ってある。

さよならポラロイド。
いままでどうもありがとう。


May 18, 2011

ALL COME TO LOOK FOR AMERICA



以下は 今年の2月
福岡のフリーマガジン『YODEL』に書いた原稿です。



アメリカの息子たち


 ぼくの好きなアメリカのことを書く。わざわざ最初に断るのは、この文章にはアメリカの歴史的背景や人種問題や政治力学や経済構造などに関する精緻な分析と深淵な考察は一切なく、日米の軍事戦略的関係のことを言い出せばむしろ嫌いというアンビバレントな感情をも棚の上に放り投げて、ただただシンプルに、どうして好きなのかを個人的に考えたいからだ。

 金沢の21世紀美術館で「ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー」を観た。素晴らしい展示群の中でもっとも心打たれたのは「Together」という共同連作だ。発案者はマイク・ミルズ、ロサンゼルス近郊の山中に棲み人知れず住宅地のすぐそばを移動するマウンテンライオンの足跡を追うという内容。撮影場所は発信器をつけられたマウンテンライオンのGPS記録などをもとに決められている。その美しい風景写真の前に立ったとき、ぼくの好きなアメリカとは何なのかがちらりと見えたような気がした。

 例えば、アメリカ大陸を飛行機で横断をするときに窓から見下ろすどこか別の惑星のような地上。あるいは、カリフォルニアからアリゾナを経由してニューメキシコまでインターステートで向かう途中に延々と続く「Middle of Nowhere」と呼ばれる殺風景な荒野。あまりにもスケールの大きなランドスケープを前にすると、人は自分が自分でなくなるという不安を感じるものらしい。それを打ち消すためにアメリカ人は科学技術と合理主義で、眼前のウィルダネスに戦いを挑むのだ。自然と共生するという道を選ぶのは「ZENにかぶれた若造」がやることでしかない。サンフランシスコの坂道を思い浮かべてみよう。小高く傾斜のきつい丘の四方から真っすぐに上る道が頂上で交差している。日本なら、あるいは欧州なら、そんな無理矢理な道路はできるだけつくらず、丘を巻くように峠道にすることのほうが普通だろうに。街区を碁盤の目にしたいという理想が、強引に道理をひっこませる。自然の中に唐突に座りの悪い人工物がある風景の物悲しさこそが、ぼくの好きなアメリカだということを、ホンマタカシの写真が示唆していた。

 前に友人と酒を飲んでいて「才能あるイギリス人男性はだいたいマザコンで、才能あるアメリカ人男性はだいたいファザコンじゃないか?」という話で盛り上がった。根拠は何もない。そのときに名前が挙ったのはジョン・レノンとブライアン・ウィルソンだったが、実際にそうなのか怪しいものだ。でも、良心的アメリカ人ファミリーの中で、清廉潔白な頼れる父親で居続けることのプレッシャーというのは、なんとなく想像ができる。「男たるもの家の一軒も建てられなくてどうする」と言われたとき、日本ならそういう甲斐性を持てという話だけれど、アメリカ人にとっては、リアルに自然をねじ伏せて家を建てる腕力と技術を持てという意味なのではないだろうか。そして父親は意識するしないは別にして、息子にもそうあるべきと無言のうちに強要する。どんなに都会的に育っていたとしても、だいたいのアメリカ人男性が、ウィルダネスを前にして途方にくれたような悲しみを抱えているのはそのせいだ。アメリカが生んだ傑作映画のほとんどが父と息子の物語だったというのは暴論だとしても、その悲しみをサウダージと呼ぶと、何か本質が理解できたように錯覚する。

 ウィルソン家の長男が生み出した傑作『ペット・サウンズ』は “アメリカン・サウダージ” の見本だと思う。すべての曲が終わった後にどうして警笛を鳴らしながら過ぎ去っていく列車のSEが続くのか、どこかに答えが書いてあったのかもしれないが、不勉強なぼくはその訳を知らない。ニューメキシコ州のギャラップというルート66沿いの町に泊まったとき、モーテルの裏が線路で、朝早くに荷物を背負ってクルマまで歩いていくと、ちょうど列車が通り過ぎるところだった。先頭に機関車が2両、最後尾も機関車で、その間には100両以上の貨車が連結されていた。激しく警笛を鳴らしながら走り過ぎていく。行く手を遮るものなどないはずなのに警笛がやむことはない。まるで目の前に広がる荒野を威嚇しているみたいだった。その響きは本当に物悲しく空虚で、そして切なくて、そう思った瞬間に、ぼくの頭の中で「キャロライン・ノー」が鳴った。


May 16, 2011

RULES



【イマキュレート ハート カレッジ 美術学部のルール】

ルール1 信頼できる部分を見つけ、しばらくそれを信頼すること。

ルール2 学生の義務 先生と仲間から可能なかぎり
すべてを引き出すこと。

ルール3 先生の義務 学生から可能なかぎりすべてを引き出すこと。

ルール4 すべてを実験と思うこと。

ルール5 自己鍛錬できる人であること。これは聡明な人や賢い人を選んでそれに倣うことを意味します。鍛錬できる人は良いやり方を真似できる人。倣いながらさらに良いやり方を見出す人。

ルール6 間違いは存在しない。勝ちも負けも存在しない。
つくることだけが在る。

ルール7 唯一のルールは 作業すること。取り組み続ければ何かに繋がります。すべての作業をこなす人が最終的に何かに到達できます。

ルール8 創造と分析を同時におこなわない。
二つは別のプロセスです。

ルール9 できるかぎりハッピーでいる。自分であることを楽しむ。
考えている以上に軽いことです。

ルール10 " 私たちはすべてのルールを破る。自分が決めたルールでさえ。どうやって? 未知数Xのために十分な余白を残しておくこと " ジョン・ケージの言葉

役に立つヒント 常に動きまわること。行き来すること。授業に出席すること。手当たり次第に本を読むこと。映画を注意深くたくさん観ること。すべてをとっておくこと。あとで役立つかもしれないから。来週、また新しいルールを考えましょう。


May 11, 2011

MONOCHROME SET



富ヶ谷のアヒルストアの斜め向かいにできたばかりの
<THE BEACH GALLERY> というところへ行った。
メイプルソープや ブルース・ウェーバーなどの
モノクロで印刷された展覧会告知ポスターのコレクション。
狭い場所なのに 息苦しさを感じさせないのは
空間のつくりや 細やかな配置センスあってのことだと思う。
ここで セリーナ・ミトニク=ミラーの作品が観られたらなと
すぐに想像が膨らんでくる。

潔いモノクロームのポスターを眺めているうちに
オリジナルプリントと印刷物のどちらかを進呈すると
もし誰かから言われたとして まったく迷うことなく
自分はオリジナルプリントのほうを選ぶだろうかと考えた。

もちろん作品にもよるし 金銭的な評価も頭をよぎるだろう。
だが例えば いま目の前にある ダニー・ライアンのポスターと
そこで使われている彼の写真のオリジナルプリントが
あったとしたら ぼくは
写真の下に黒ベタをあしらったデザインの
このポスターのほうを欲しいと言うに違いないのだ。
それが 写真家を評価していることになるのか
それともグラフィクデザイナーを なのか
どちらなのかが よくわからない。

展示の最終日は6月8日だそうだ。
その日にあらためて来て まだこのポスターが売れずにあったら
たぶん ぼくはそれを買うことになるのだと思う。


HEAD WIND



三月の終わり 銀座 <ggg> で開かれた立花文穂展を
会期最終日に滑り込みで観にいったとき
『クララ洋裁研究所』が出版された際につくられた
小さなフリーペーパーが展示してあった。
もちろん デザインしたのは立花文穂である。
美しい写真も彼が撮影したものだったはず。
問題なのは そこに載っていた酷い文章だ。
その文章が妙に目立っていて
つい読んでしまうように置かれていたと思うのは
それを書いたのが ぼく自身だからなのだろう。
誰も気にかけず読まなかったに違いないが
何年ぶりかでその駄文を目にしてしまったぼくは
フリーペーパーをどこかに隠したい気持ちになった。

人やその作品の魅力を文章にして伝えるのはとても難しい。

帰り道 並木通りの <空也> に何となく寄ってみたら
いつもは何日も前から予約しておかないと買えない
名物の空也もなかが あっさりと手に入ったものだから
その幸運に 落ち込んだ気分もすぐに快復し
以上のようなことは すっかり忘れ去っていたのだ。

一昨日 個展のときに申し込んでおいた
立花文穂の作品集『風下』が届いた。
その本に添えられた 兄である立花英久の文章が
あまりに素晴らしかったので
またあらためて あの駄文のことを思い出してしまった。


May 10, 2011

RIGHT


郵便受けに『ニューヨークの川端実』が届いていた。

去年の春 引越しの荷造りをしているときに
窓際に積み重ねておいた本が 水に濡れて
ダメージを受けていることに気づいた。
冬の間の結露のせいだ。
ページがくっついてしまい開けないものもある。
しかもそれが 特に大切なものばかりだったから
心の底から 自分の管理の悪さを呪った。

そんな話を友人としていて
例えばどんな本が駄目になったのかと訊かれ
サイ・トゥオンブリーの画集とか エド・ルシェの作品集
中でもいちばん悲しかったのは 川端実と答えた。
すると 彼はまったく予想もしていないことを言った。

家の書庫のどこかにあるはずだから
もし片付けをして出てきたら それをあげるよ。
ぼくが持っているよりも きみが持っているほうが相応しい。

あまりに唐突で飛び上がらんばかりの話に 耳を疑ったし
正直 実際にそうしてくれるとは思っていなかった。
過度の期待はせず 気持ちだけありがたくいただいておこう。

しばらくして「見つかったから 住所を教えて」と
連絡があった。そして郵便が届いた。

久しぶりに手にした『ニューヨークの川端実』を
見るでもなく ただ撫でまわしていたら
はらりと二つに折った紙が ページの間から落ちた。
川端実展を告知するチラシだった。
1992年4月7日ー5月10日 京都国立近代美術館。
京都に出かけ 会場で買ったものかもしれない。

川端実という抽象画家の存在を知ったのは
原田治さんの『ぼくの美術帖』を読んだときだが
1982年にパルコ出版から刊行されたこの本を
ぼくが手に入れたのは90年代に入ってからで
京都で回顧展が開かれた92年よりも後だと思う。
そもそも 原田さんの『ぼくの美術帖』だって
きっと好きだろうから読んでごらんと
別の友人が贈ってくれたものなのだ。

ぼくは『ニューヨークの川端実』の所有者に
本当に相応しい男なのだろうか。

お礼の言葉に添えて友人にそう書いたら
すぐに返事が来た。
「モノにも意志があって 行くべき所に行くのです」

今度こそ大切にしないと 罰が当たるに違いない。

May 4, 2011

TENDERLY


これは作り話ではない。

サンフランシスコ空港でレンタカーを返す前に
必ず寄る(寄らなければならない)ガスステーションがある。
いつもアジア系の太った男と黒人の大柄な男のどちらかが
レジに立っているので きっと2人でシフトを組んでいるのだろう。

ある日 その大柄な黒人のほうがいきなり話しかけてきた。
3年か4年前のことだ。

どこから来た?
東京だよ。
日本人はみんなアメリカ人を嫌っているんだろう?
どうして?
意味のない戦争をやっているじゃないか。

そして彼は続けた。

でも あと数ヶ月だけ待ってくれ。
オレたちはブッシュを選挙で引きずり下ろす。
だから 日本に帰ったら伝えてくれよ。
アメリカ人全員が悪いんじゃないんだ って。

新しい大統領になっても アメリカは大して変わらなかった。
それは事実だけれど ガスステーションの男の話を持ち出して
ぼくが言いたいのは そんなことではない。
ここのところ感じている小さな違和感を
何とか言葉にしたくて うまくできないでいるだけの話だ。

一時的な感情でものを言う人々と それに対して
瞬間的な反感で侮蔑の言葉を投げつける人々。
じっくりと落ち着いて考えるよりも
人より早く大きな声を上げて
正論を唱えることを競うような世界。

もちろんそれがすべてではないし
"瞬間" を吐きだすことこそが特質のひとつと
理解していないわけでもないし
楽しい部分は楽しんでいる(大半は楽しいのだ)。
それでも この頃のツイッターは
ときどき ぼくを少し悲しい気持ちにさせる。

May 2, 2011

WILLING


映画で観た場所に いつか行ってみたいと思うか。
そういう話を友人としているときに
ぼくにはそういう場所がひとつもないと言おうとして
リトルフィートのファーストアルバムが頭に浮かんだ。

荒れた土地に立つ倉庫のような建物の壁に
雪に埋もれた町の 写実的な絵が描かれている。
壁の前で厚手のコートを着てポーズをとるメンバー。
空の青さや建物の前の土の感じから そこが
冬の間 雪におおわれてしまうような土地ではないことが
なんとなく見てとれる。

あの建物の前に立てたら きっと記念写真を撮ると思う。
ぼくがそう話すと 友人は 知っていそうな人物に
どこで撮影された写真なのかを訊いてみると言ってくれた。

結果は予想外だったが ここには書かない。
知ろうとすることを人任せにしたぼくは
いちばんの幸せを逃してしまったのかもしれない。
伝えたいのは そういうことなので
意地悪と思わず 許してほしい。

May 1, 2011

KOKESHI



久しぶりに神奈川県立近代美術館へ。

近美と言ったら ぼくにとっては鎌倉館のこと。
1951年に坂倉凖三が設計した建物だ。
残念ながら もっとも自然光が美しい第三展示室に
耐震性の問題が見つかって 現在はそこだけ閉鎖されている。

このまま建替えになってしまうのかもしれないと思った。
そもそも敷地は鶴岡八幡宮のもので
借地権が間もなく切れるという話もあったはず。
二階展示室の横で 展示会カタログの在庫が
安値で販売されていて
まるで一掃セールのように見えたから
急にその記憶がよみがえったのだ。
館内のカフェでコーヒーを飲み 池をながめながら
このテラス席に あと何度くらい座れるのかと切なくなる。

階段を下りて パティオにあるイサムノグチの彫刻を
写真に撮り 建物沿いに裏へまわり八幡宮の参道へ戻った。
こんなに人があふれているのに どうして美術館には
団体見学の中学生しかいなかったのだろう。


April 29, 2011

ABSTRACT



東京国立近代美術館で「生誕100年 岡本太郎展」が
華々しく開催されている同じ時期に
横須賀美術館で「生誕100年 川端実展」が開かれているのは
もちろん この二人が同じ1911年の生まれだからだ。
東京美術学校西洋画科の 藤島武二の教室で学んだ同級生。

二人の作品を対比させて何かを語りたいわけではない。
ただ ひっそりと静まり返った横須賀美術館の
広い展示室中央に置かれたソファに座り
「長方形 赤」というタイトルの絵を眺めていて
国立近代美術館は 今日もきっと混雑しているのだろうなと
ふと思ったのだ。

その絵は タイトルの素っ気なさのとおり
何かが具体的に描かれているのではないが
その前から動けなくなってしまうような
赤という色の純粋な美しさを持っていて
絵の前に座り込んで 少なくとも
10分や15分を費やすべき類いの作品だった。

「孤高」というのは 実にイカした言葉だと思う。


April 28, 2011

KITES ARE FUN



ときどき無性に食べたくなるものは ちゃんぽん。

ちゃんぽんと一口シューマイを頼んで
できあがるのをぼんやり待っていたら
壁に菱形の旗が下げられていることに気づいた。
その旗と同じものを 前に雑誌で見かけたことがある。
凧だ。
なるほど だからこの店の看板は菱形なのか。

注文した品が出てくるまでの間に
何かを発見すると 妙に嬉しいものである。

それにしても 長崎の凧は格好良い。
タコでなくハタと呼ぶそうだが
たしかに 船で使われる信号旗のように
シンプルで力強いデザインだ。

ああ また長崎に行きたくなった
と思い始めた頃合いに
ちゃんぽんがテーブルに運ばれてきた。


April 27, 2011

MANZANITA



"Manzanita the tips
in fruit,
Clusters of hard
green berries
The longer you look
The bigger they
seems,
little apples "

Gary Snyder


マンザニータの茂みを歩いた。
大学生の頃に買った『ユリイカ』の別冊
「谷川俊太郎による谷川俊太郎の世界」で
はじめてその名前を知った赤い樹皮の低灌木。
そこで紹介されていた ゲイリー・スナイダーが住む
キットキットディジーの近くでのこと。
『ユリイカ』を読んでいた頃は
自分が将来 ネヴァダシティーに来ることになると
想像してみようということさえ 頭に浮かばなかった。

前にソノマのカナードファームに行ったときに
ちょうどシェパニースに出荷する日で
木の幹に掲げられた長いリストを見せてもらったら
その中に「firewood」が含まれていた。
厨房のウッドオーヴンで使うための薪。
火力が強いマンザニータの枝が
野菜と一緒にバークレーに届けられるのだそうだ。


April 14, 2011

MR. TAMBOURINE MAN



ぼくにとって永井宏さんは 美術作家である以前に 憧れの編集者だった。80年代の終わり 田園調布駅前にあったカフェ『ドゥエ ソレッレ』ではじめてお会いしたのだが(紹介してくれたのは 生井英考さんか佐山一郎さんのどちらか) それ以前から『ブルータス』で名前を見知っていて ステレオブラザーズ名義のコラムも愛読していた。だから最初に「こちらは勝手に 前から存じ上げています」と自己紹介をしたのだ。

ときどきそのカフェで偶然に会って話すうちに ぼくが10年くらい大切に取ってあった『ZERO』という日本航空のパンフレットが 実は永井さんの仕事だと聞かされて驚いた。パンフレットの中味は いま まったく忘れてしまっているけれど アメリカ大陸の途方もない大きさと自由をぼくの心に刻み付け 保存しておこうと決めるのに充分すぎる魅力を持った内容のはずで その話に触れてから 編集者としての永井さんの存在は ぼくの中でますます大きくなった。

田園調布のカフェを根城にして 永井さんとぼくは『VISAGE』という雑誌をつくった。ジャック・タチの特集。永井さんの役割はアートディレクターだ。やがて 永井さんは逗子に引越してゆき 駅前のカフェも店をたたんでしまう。ある日 ご招待いただいて(むりやり押し掛けただけだったかもしれない)逗子のお宅におじゃましたことがきっかけで 永井さんの暮らしぶりにすっかりかぶれたぼくは 鎌倉で生活を始めることになった。友人や知人の家に行ったり来たりして手料理を食べるというような付き合いが苦手だったはずなのに この時期は よく永井さんの家で酒を飲んで「ミスター・タンブリンマン」を歌ったり 永井さんの紹介で知り合った人たちを家に招いて楽しく過ごした。そして 誰彼かまわず 鎌倉へ引越してきなよと誘った。

鎌倉に住んでいた頃 永井さんとぼくは『ガリバー』という雑誌のパリ特集を一緒につくり さらに『ブルータス』の湘南プロヴァンス特集(すごいタイトルだ)に参加した。永井さんが変名で原稿を書いて ぼくは ぼく自身と架空の人物がない混ぜになったキャラクターとしてそこに登場する。とても面白い協同作業だった。

永井さんが主宰した葉山のギャラリーが存在したことで どれだけの才能が発見され 勇気づけられ 巣立っていったかについては たぶんぼくよりも若い世代の まさにそこに集まった人たちのほうが良く知っているだろうし それについて語ってくれるに違いない。

「人と人を繋げる媒介役になること」や「もともとその人に備わっていた 何か良いものに気づかせること」は いまぼくが編集者としていつも心がけていることだが それを実際にお手本として ずっと変わらずやってみせてくれていたのが 永井さんなのだと思う。

永井さんが亡くなられたことを知った朝 バークレーから北上してネヴァダシティーへ向かった。そこはビート詩人のゲイリー・スナイダーが住む町でもある。フリーウェイを走り アメリカ大陸の途方もない大きさと自由を感じながら ぼくは永井さんを想った。カリフォルニアを彷徨っていて永井さんの葬儀に参列できないという偶然は とても切ない。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。


April 10, 2011

CHANGE?



"あなたのすることはほとんど無意味であるが
それでもしなくてはならない。
そうしたことをするのは
世界を変えるためではなく
世界によって自分が変えられないようにするためである"

何度も行っているのに 今日 はじめて
フェリープラザビルディングの裏に
ガンジーの銅像があることに気づいた…。


April 8, 2011

VOTE!



柄にもないことを言うのを許してほしい。

先週の木曜にカミさんと期日前投票をしてきた。
本当はもっとじっくり検討したかったのだ。
でも 翌日から投票日過ぎまで不在になるので
この日に行くしかなかった。

不毛な選択だから選択をしないというのは
賢明な態度でも 冷静な判断でもなく
もっとも不毛な選択をしたということでしかない。

何かを選択することは不毛ではない。
どんな状況だろうと 選択肢が少なかろうと
考えて 選んで 自分の意志で前へ進めていくのは
日々 心がけているべきことだと思う。

棄権はもちろん 白票も無効票も
あなたが支持しない誰かを有利にするだろう。


April 4, 2011

PLEASE REFRAIN



パサディナのフリーマーケットを冷やかしてから
遅めの朝飯を食べようと
ブレントウッドの「カントリーマート」に
新しく出来たレストラン『FARM SHOP』へ行った。
チキンサラダを頼んだのだが
ジェムレタスやラディッシュの新鮮さ
ドレッシングの味付けの繊細さが
ロサンゼルスとは思えないほど素晴らしいと
同行者に話したら ソノマの有名店に居た人が
始めた店だと教えてくれた。
北カリフォルニアなら さもありなん。
とにかくそのサラダは抜群に美味かった。

"cell phones, tweeting and e-mailing
have been proved harmful
to other diners' appetites.
please refrain."

メニュー表のチキンサラダのすぐ下に
こんな一文が印刷されていることに気づいたときは
すでに後の祭り。
携帯で写真も撮り 急用で通話までしてしまっていた…。


March 22, 2011

BEEN TO CHANAAN


先週の金曜日 いつもより遅い飛行機で鹿児島に着いた。
たぶん『前田家』も『みまつ』も もう売り切れに違いない。
明日の朝の角食をどこで手に入れたらいいのか…
思わずため息をついたら 姶良に寄っていきましょうと
ジャッドくんが 慰めるように言った。
たしかに 石蔵がまだ『DWELL』だった頃に開かれた
オーガニックマーケットで
その店のサンドウィッチを買って食べたことがあるし
とても美味かったという記憶もある。
その店に角食があるかどうかは知らないけれど
この際 サンドウィッチでも構わないと思い
ジャッドくんのクルマに乗る。

予想通り『カナン』はいまどきのパン屋の構えをしていたが
中に入ってすぐにお目当ての角食が見つかる。
ただし「パンドゥミ」という札がついていた。
その名のほうがここに相応しいのは ぼくにも理解できる。
大きさは『ペリカン』の角食の小さいほうと同じくらい。
どこかでこそばゆさを感じながら
パンドゥミを一斤 買った。

さっき 空港へ行く前にまた『カナン』に寄って
明日の朝のための パンドゥミを二斤 買った。
開店と同時に電話して 焼き上がり時間を確認しておいたのに
それでも30分ほど早く着いてしまい
コーヒーを飲みながら焼き上がるのを待ったのだ。

また一枚 強力な持ち札ができたと
素直に喜んで良いのだろうか。
悩みが増えただけではないのだろうか。

March 21, 2011

CHURROS


田上にあるスペイン料理屋でランチを食べた。
最後に出てきたデザートはチュロス。
それだったら エスプレッソではなく
チョコラーテを頼むべきだったな…。

March 18, 2011

SOUTHBOUND


遠出をするときにいつもそうしていることを
今朝はちょっとためらってしまった。
そしてためらったことで
ちょっとイヤな気分になった。

ためらう必要などないはずだ。

夏に完成させるものの準備を
今日から始める。

March 17, 2011

0311


何々に比べたらという言葉を使わないで書きたいと思う。

立花英久の小さな像を 彼の展示を観にいったときに購入して
会期が終わっていたのに なかなか取りにいけないでいた。
先週の金曜日の午後 ようやく時間ができ
飯倉片町のビルの三階にあるギャラリーまで出かけた。
エレベーターに乗ったとたん 電気が消えると同時に
すぐに降りてくださいという自動音声が流れた。

日曜日になって 気分転換に新宿まで昼ご飯を食べに出た。
バスに乗るとめずらしく満員だ。
いや よく見ると後ろのほうの二人掛けのシートには
空きがたくさんあった。
ただ 誰もが荷物を脇に置いていたり
通路側寄りに座っていて 目を合わせてもくれない。

東京は何も変わっていないと思った。

家に戻ってから 金曜日に持ち帰りそのままにしていた
包みを解いた。
個展のタイトルが「カナシミ」だったことを思い出す。

March 9, 2011

IN HIS GARDEN



昨日 銀座へ行く用事があったので
約束よりも少し早く出て『ペリカン』で角食を買った。
わざわざ田原町まで遠出をしたのは
数日前に友人からマーマレードが届いたからだ。

友人のお父さんの庭になった夏みかんで
お母さんがつくったマーマレード。
その夏みかんの木を ぼくは何度か見せてもらったことがある。

口の中に広がる酸っぱさと甘さとほろ苦さが
初夏の風に揺れていたあの背の高い木が
まるで目の前にあるように思わせてくれる幸せと
近所に朝早くから営業している
角食のおいしいパン屋がないことの不幸を
同時に感じる一日の始まりだった。

February 28, 2011

AFTERNOON TEST


会場に爆音で鳴り響く電子音楽。
曲が終わってもアンコールの拍手がわかなかったのは
みんなとても遠い世界に連れていかれ
我に返るまでに時間がかかったからなのだと思う。
しんと静まる中 ステージに戻ってきたヤンさんが
アコースティックギター1本で
大野由美子と「窓から」という曲をデュエットする。
それが ドゥーピーズの「Trough My Window」だとは
すぐには気づかなかった。

建物の外で友人が出てくるのを待っていたら
ひょっこりとヤンさんが現れた。
少しだけ立ち話をする。
最後が弾き語りとは思わなかったと言ったら
「キザだった?」と ヤンさんは笑った。