May 18, 2011

ALL COME TO LOOK FOR AMERICA



以下は 今年の2月
福岡のフリーマガジン『YODEL』に書いた原稿です。



アメリカの息子たち


 ぼくの好きなアメリカのことを書く。わざわざ最初に断るのは、この文章にはアメリカの歴史的背景や人種問題や政治力学や経済構造などに関する精緻な分析と深淵な考察は一切なく、日米の軍事戦略的関係のことを言い出せばむしろ嫌いというアンビバレントな感情をも棚の上に放り投げて、ただただシンプルに、どうして好きなのかを個人的に考えたいからだ。

 金沢の21世紀美術館で「ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー」を観た。素晴らしい展示群の中でもっとも心打たれたのは「Together」という共同連作だ。発案者はマイク・ミルズ、ロサンゼルス近郊の山中に棲み人知れず住宅地のすぐそばを移動するマウンテンライオンの足跡を追うという内容。撮影場所は発信器をつけられたマウンテンライオンのGPS記録などをもとに決められている。その美しい風景写真の前に立ったとき、ぼくの好きなアメリカとは何なのかがちらりと見えたような気がした。

 例えば、アメリカ大陸を飛行機で横断をするときに窓から見下ろすどこか別の惑星のような地上。あるいは、カリフォルニアからアリゾナを経由してニューメキシコまでインターステートで向かう途中に延々と続く「Middle of Nowhere」と呼ばれる殺風景な荒野。あまりにもスケールの大きなランドスケープを前にすると、人は自分が自分でなくなるという不安を感じるものらしい。それを打ち消すためにアメリカ人は科学技術と合理主義で、眼前のウィルダネスに戦いを挑むのだ。自然と共生するという道を選ぶのは「ZENにかぶれた若造」がやることでしかない。サンフランシスコの坂道を思い浮かべてみよう。小高く傾斜のきつい丘の四方から真っすぐに上る道が頂上で交差している。日本なら、あるいは欧州なら、そんな無理矢理な道路はできるだけつくらず、丘を巻くように峠道にすることのほうが普通だろうに。街区を碁盤の目にしたいという理想が、強引に道理をひっこませる。自然の中に唐突に座りの悪い人工物がある風景の物悲しさこそが、ぼくの好きなアメリカだということを、ホンマタカシの写真が示唆していた。

 前に友人と酒を飲んでいて「才能あるイギリス人男性はだいたいマザコンで、才能あるアメリカ人男性はだいたいファザコンじゃないか?」という話で盛り上がった。根拠は何もない。そのときに名前が挙ったのはジョン・レノンとブライアン・ウィルソンだったが、実際にそうなのか怪しいものだ。でも、良心的アメリカ人ファミリーの中で、清廉潔白な頼れる父親で居続けることのプレッシャーというのは、なんとなく想像ができる。「男たるもの家の一軒も建てられなくてどうする」と言われたとき、日本ならそういう甲斐性を持てという話だけれど、アメリカ人にとっては、リアルに自然をねじ伏せて家を建てる腕力と技術を持てという意味なのではないだろうか。そして父親は意識するしないは別にして、息子にもそうあるべきと無言のうちに強要する。どんなに都会的に育っていたとしても、だいたいのアメリカ人男性が、ウィルダネスを前にして途方にくれたような悲しみを抱えているのはそのせいだ。アメリカが生んだ傑作映画のほとんどが父と息子の物語だったというのは暴論だとしても、その悲しみをサウダージと呼ぶと、何か本質が理解できたように錯覚する。

 ウィルソン家の長男が生み出した傑作『ペット・サウンズ』は “アメリカン・サウダージ” の見本だと思う。すべての曲が終わった後にどうして警笛を鳴らしながら過ぎ去っていく列車のSEが続くのか、どこかに答えが書いてあったのかもしれないが、不勉強なぼくはその訳を知らない。ニューメキシコ州のギャラップというルート66沿いの町に泊まったとき、モーテルの裏が線路で、朝早くに荷物を背負ってクルマまで歩いていくと、ちょうど列車が通り過ぎるところだった。先頭に機関車が2両、最後尾も機関車で、その間には100両以上の貨車が連結されていた。激しく警笛を鳴らしながら走り過ぎていく。行く手を遮るものなどないはずなのに警笛がやむことはない。まるで目の前に広がる荒野を威嚇しているみたいだった。その響きは本当に物悲しく空虚で、そして切なくて、そう思った瞬間に、ぼくの頭の中で「キャロライン・ノー」が鳴った。